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具体的道徳論ー誰も定義出来ていない「道徳とは何か?」を苦悩の末に遂に明らかにする

講師名 橋本 唯隆
講師名よみ はしもとただたか
肩書き 教育研究家
都道府県 東京都

プラン詳細

タイトル・演題 具体的道徳論ー誰も定義出来ていない「道徳とは何か?」を苦悩の末に遂に明らかにする
スタイル区分 講演
想定する受講者区分 管理職
受講者へ提供する価値
・伝えたい事
1 社会を成り立たせるもの
人間の社会は官民各組織、団体の活動により、機能しており、それを支えるものは家庭や個々人の活動であり、更にそれを支えるものは「これだけの義務は最低限果たす。それで初めて、権利も主張できる」との「義務と権利」に関する意識である。そして個人が腐敗、堕落して、義務を果たさず権利だけを主張すれば、組織、団体も、そして社会も腐敗、堕落することは当然である。
それは公的な組織だけの問題ではない。家庭においても同様である。家庭において、父親が父親の義務を果たさず、権利だけを主張してやりたいことだけをやれば、家庭は破綻するであろう。母親にしても同様である。夫が夫としての、妻が妻としての義務を果たさず勝手なことをすれば同様に破綻するであろう。「父親のくせに」とか「上司のくせに」とか「先輩のくせに」の言葉を頻繁に耳にするが、これら言葉の後に続くものは「・・のくせにやることやってない!」、「・・のくせに、やりたい放題だ!」との非難の言葉である。これらの背景にあるものは、その立場ごとの「果たすべき義務」や「許される範囲の権利」が暗黙のうちに規範的なものとして存在し、そこにそれぞれ「守るべき一線」が存在していることを示す。その一線が守られなければ、「・・のくせに」との非難となり、守られれば「さすが・・」との賞賛となる。
そして、立場ごとの「義務と権利」の具体例を示す。親の「義務」は、子を養うことであり、その「権利」は、子供の可愛さを独占でき、その子から慕われ、自己の価値観に基づき子供を育てる喜びを享受できることである。上司の場合、その「権利」は、高い報酬と指示、指導、叱咤できる権限であり、その「義務」は、持ち場で起きた問題に対処し、責任を取ることである。義務は「辛いもの、厄介なもの」であり、権利は「好ましいもの、欲しいもの」である。従って、義務の減少には即、誰もが賛同するものの、その拡大には反対しがちであり、更に、権利の減少には、即反対するものの、その拡大には即、賛同するのが、人間の一般的な傾向である。
2 道徳とは何か?
如何なる人間も賞賛されることを好み、非難されることを嫌う。「さすがお父さん!」や「さすが部長!」と賞賛されることを好み、「父親のくせに!」や「上司のくせに!」と非難されることを避けようとする。そのため父親としての「あるべき自分」即ち、父親としての「出来れば義務に積極的であり、権利に抑制的」でありたいと望む。ところが、現実は、「その義務から逃げ出したい臆病な自分」がおり、そして「時に、権利を越えて慢心(傲り)に浸りたい自分」がいる。これら「現実の自分」の存在こそが人間にとって最も厄介なのである。やりたくない義務であれば、「誰もやってない。何んで俺だけがやるの?」と言い、やりたいことであれば、「誰でもやってる。俺だって羽目を
外したい」と我欲に走り、自分に都合良く振る舞うのである。例えば、「子供が非行に走り出した」と妻から告げられ、「父親として、ここは子供に衝突覚悟で問い質すべき」と思いつつ、「仕事は忙しいし、喧嘩にでもなったら厄介。妻に任せたい」と思う臆病な「現実の自分」がいる。上司としての場合も同様である。「過去から続いて来た隠蔽問題は即刻、解決すべき」と思う「あるべき自分」が居て、一方で「なぜ自分の時に、自分だけが矢面に立つ必要があるのか?俺だっていい思いをしたい」と思う慢心に浸りたい「現実の自分」がいる。
道徳とは、この「あるべき自分」と「現実の自分」との差を縮めんとして悩む葛藤である。
換言すれば、道徳とは、「あるべき自分」を優先させようとすると「そんな事したら大変な事になるぞ!やめとけ!」と迫る「もう一人の自分」との戦いであり、また「現実の自分」を 優先させようとすると「それでいいのか?それでも父親(上司)か!」と非難する「もう一人の自分」との戦いでもある。
この問題は、職業を越え、国境を越え、時代を越えて存在する人間の永遠の課題である。
(下段に続く)
講演内容・概要 区分: 経営哲学
(上段から続く)
3 なぜ道徳が重要か?
人間は「あるべき自分」の理想だけを常に掲げて、現実を無視して生きることなど聖人君子でもない限り不可能である。かと言って、「現実の自分」だけを掲げて理想もなく、我欲丸出しで生きることは、生きている意味が無くなる。
だからこそ時には、ある程度の妥協をしながら生きる。しかしながら、人間は常に楽な方へ楽な方へと流れがちである。真剣な葛藤は苦しいからである。そして最も楽なものは葛藤しないことである。それは、「あるべき自分」を考えなくすることである。すると「現実の自分」との差が生じないことから「嫌なこと(責任追及、批判、劣等感)から逃げたい自分、好きなこと(報酬、賞賛、名誉欲、優越感)に浸りたい自分」だけに従うことになる。これを具体的に言えば、「家庭の厄介な事は全て妻に任せ、外で遊び呆ける父親」とか「部下から厄介な問題を報告されると途端に不機嫌、気付かぬ振りしながら、賞賛されるような美味しい話には、すぐに飛び付く上司」などである。だからこそ「あるべき自分」を頭の片隅に置いて忘れず、葛藤することが大切なのである。差を縮めようとしてできない時があるはずだが、良心の呵責として「もう一人の自分」から非難、揶揄されることで、「次こそはやる」との思いに繫がるはずである。そして権利だけには安穏としてドップリ浸かることの自己の腑甲斐なさ、理不尽を恥じるだろう。「こんな父親でいいのか!」、「こんな上司でいいのか!」との葛藤こそが、より良き父親やより良き上司への模索に繫がるのである。だから道徳は重要なのである。

「義務と権利」の重要性は様々なところで存在する。他人を批判する「義務と権利」について例を挙げる。「彼の発言だけは許せない」と感じて仕事帰りの居酒屋で同僚に不満をぶつけ、他人を批判する快感は誰しも感じた事があるはずである。「言いたいことを言う」、この「人を批判する権利」は誰にでもあるが、それを行使するなら、「これだけは言うべき、言わねばならない」と感じた時に、仮に相手が強くて怖い人であっても、その「人を批判する義務」が生じる。言い易い相手を批判する慢心、傲慢に浸りたいなら、言い辛い相手を批判する自己の臆病を我慢する義務が生じる。言論の自由が叫ばれ、それは民主主義社会の重要な価値とされる。「言いたいことを言う権利」は誰もが声高に主張するが、「言うべきことを言う義務」について、その主張をほとんど聞かない。匿名であったり、相手が弱いと見れば、批判の集中砲火を浴びせるくせに、実名であったり、相手が強いと見れば、どれほど沈黙することの多いことか。権利に酔いたい「現実の自分」を望むなら、「あるべき自分」であるべく、強い相手にも意見し、自己の臆病を克服する義務が生じる。この人間の傲慢を示す事例は無数にある。駅員が酔っ払いから殴られる事例が多いと聞くが、「制服着ている人間は自分に危害を加えない」との絶対安心感から、怒りにまかせて殴るのである。我々人間はどんなに酔っていてもヤクザ風の怖そうなお兄さんに殴り掛かる事は決してない。倍返しされるからである。「相手は怖くない」、「自分に危険は及ばない」と思えば、人間は傲慢になる。店員を怒鳴り散らす客や、部下を怒鳴り散らす上司や、躾と称して密室で幼児を鬱憤から殴る親も同様であり、更には会議では怖くて発言できないのに、会議が終われば暴君の如く雄弁になる人間も同様である。更には、いじめを目撃したり、いじめられる側の時はいじめた相手に「やめろよ」とは怖くて言えないのに、いじめた相手が困っていたり、辛い目にあって居たりすると「いい気味だ」といじめの報復をして薄ら笑いを浮かべる傲慢な自分がいる。(この自分の格差、醜さに気付かせることがいじめ防止の唯一の方法である)

「強い相手には臆病なくせに、弱い相手や自分に危険が及ばないと安心すれば途端に傲慢」になる、この「自分の狡さ」、すなわち「卑怯な自分」を認識せねばならない。では何故卑怯なのか?相手によって態度が豹変し、強い者にひれ伏し、弱い者に傲慢、居丈高になるその格差、掌返しが卑怯なのであり、醜いのである。相手次第、状況次第でコロコロ変わる自分に気付かず、そこに「自分らしさ」の追求や葛藤がないから問題なのである。こんな側面は誰でも大なり小なり有している。臆病であることは人として恥ずかしい事ではない。しかしながら、臆病でありながら、相手によって途端に傲慢になる自分に気付かぬのは恥ずかしいこと、醜いことなのである。だからこそ、人間は自分の臆病と傲慢に敏感でなければいけないのであり、この敏感さこそ道徳性なのである。では「道徳性の高い人間」とは、どういう人間か?自分の臆病と傲慢を敏感に意識し、その臆病に対しては勇気を出して戦おうとし、その傲慢、慢心、驕りに対しては、「調子に乗るな!」と自己を戒める人間である。自己の臆病故に勇気を発揮できない時もあろう。その時、自分の不甲斐なさを恥じるだろう。その感情が「臆病な自分の癖に、そんな自分が傲慢になる」ことだけは何としても制止しようとするのである。
従って、道徳性の高い人間とは、相手によって、あるいは自分が置かれた状況によって態度や言動が変わらないのであり、そして状況により「できない」自己の限界、狡さや弱さを知るが故に、「自分のできること」を黙々と行う人間を言うのである。これは一流と呼ばれる人達に共通することかもしれない。すなわち、慢心、自惚れと無縁であり、「現実の自分」に決して満足することなく、「あるべき自分」しか念頭にないからである。
(下段に続く)
根拠・関連する活動歴 (上段から続く)
現実の社会でどれ程この逆の事例が多いかを我々は振り返る必要があると考える。自分に利害が関係すると思えば「損してはならじ」と不安になり阿るくせに、逆に利害が関係しないと思えば、途端に冷淡、傲慢になる、ような掌返しすることはないだろうか?これは「自分より高位の者には阿り、下位の者には高飛車になる」ことと同じである。更に例を挙げる。「問題ないことが最善」とばかりに問題を見ようともせず、「部下に任せるいい上司」を気取って平穏無事の安逸を貪っておきながら、問題が表面化すれば「信頼していた部下なのに裏切られた」と被害者面する企業人も官僚も同じである。学校にもある。仲間外れは怖いし、「あいつはいい奴」と思われたいから、言うべきことも言えず阿る癖に、目立つ生徒、自分に注意する生徒には、「あいつウザイ奴」と掌を返す如く傲慢になるのも同じである。大人も子供も職業も関係ない。
これを克服するものは、各人が自分の裁量で持てる「厳しく自己を内省する目」、すなわちそれは自分の限界、弱さや狡さを見つめることであり、これこそが大切な義務と考えるのである。権利の行使、「いい思いに浸る」には義務の履行、「嫌な思いをする覚悟」が先行する。「やりたい事は、やるべき事をやって、初めてできる」ということである。平穏無事にあってもそれに浸らず、自分の責任やあり方を問われる様な、「臆病、不安に縮み上がる自分」、「窮地に陥る自分」を想定しながら、「嫌われても構わない」思いで、出来ることを地道にやることが大切であり、その観点から言えば、道徳は人間が行う自己の危機管理でもある。会社は無事故の安全状態にあって、「事故」を忘れず、国家は平和にあって、「戦争」を 忘れていけないのと同じである。
道徳は人間が人間であるための、そして自分が自分らしくあるための「守るべき一線」、すなわち「やりたくともこれだけはやらない」との守るべき一線、そして「やりたくなくともこれだけはやる」との守るべき一線を守らんとする、人間にとって必要不可欠な痩せ我慢なのである。昔ソクラテスが言ったとされる「善く生きる」事が重要とされ、学習指導要領にも記載されているが、それを具体化したものを寡聞にして知らない。管見ながらこの痩せ我慢こそが「善く生きる」事なのだと考える。
4 道徳は教えられるか?
以下省略

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  • 2019年04月01日
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